桶川市川田谷をもっと知ろう!

川田谷の位置

 東を江川が南流し、西は荒川を隔て川島町に接する。過去の河川改修により、川田谷の一部が荒川西岸となっている。江川上流には浸食谷が見られ、谷津が発達して湧水池が多く見られる。

川田谷の地図 川田谷地区の地名(資料;桶川市史より)
行政上の区名 土地台帳上の字名 詳細
樋詰 楽下、宮前、原窪新田 川田谷村の枝郷であったが明治7年川田谷村に合併
薬師堂 楽上、楽中 薬師堂のお堂に由来した地名らしい
松原 八幡、小在家
田向 富士見
三ツ木 城山、氷川前 中世城郭『三ツ木城』の跡がある。
柏原 若宮、八坂、泉野 三ツ木、田向、柏原の3地区を三田原と称している。氷川神社、八幡神社の境内で、三田原の秋祭りが行われている。
狐塚 弥勒、地神、稲荷 狐塚は田の神の使者である狐をまつった祭壇をこう呼ぶ
地名はここからきているのかも。
岡村 滝ノ台、宮越、栗原
前領家 王子、山王、永久保 荘園に関係ある地名。地元では牧野氏の館があり、その前
が領地であったということから、前領家というとのこと。
天沼 大平、大沼、中台 天沼の『アマ』は高いところの意で、比較的高い
ところの沼があったのでは?
北原、東台、西台、前原 この地には八幡神社があることから八幡原とも
呼ばれ、古墳群がある。
市場 諏訪南、諏訪北 江戸時代御朱印3石拝領していた石戸領総鎮守の諏訪神
社がある。明治以降は川田谷村の村社として、村の崇敬
厚く、参拝者も当時は数多く、特に大晦日には参拝者で混
雑していた。
谷津 本沢、諏訪野 ヤツはヤチと同義語で、低湿地で山と山、台地と台地の間にあり、早くから水田として利用されていた土地らしい。
竹ノ内 武城、諏訪久保 竹之内の小字名のひとつに武城があるが中世ごろの館跡が残っている。(土塁や堀跡が断続的に残っている。)

川田谷の歴史

元号 西暦 川田谷のおもなできごと
明治元年           1868                        上川田谷村、下川田谷村が合併                                          
明治5年 1872  学制発布 川田谷学校開校
明治8年 1874  川田谷村、樋詰村が合併
明治27年 1894  日清戦争始まる
明治37年 1904  日露戦争が始まる
明治39年 1906  泉福寺阿弥陀如来座像が国の指定重要文化財となる
明治43年 1910  荒川が大氾濫し川田谷村で甚大な被害がでる
大正3年 1914  川田谷村信用購買販売組合が設立される
 第一次世界大戦が始まる
昭和6年 1931  満州事変がおこる
昭和12年 1937  日中戦争がはじまる
昭和16年 1941  第2次世界大戦が始まる。川田谷小学校は国民学校と改称となる。
昭和30年 1955  川田谷村は桶川町と合併、桶川町となる
昭和45年 1970  桶川町が単独で桶川市となる

川田谷の史跡やあれこれ
 
寺子屋
 川田谷では、もともと子弟教育が盛んで寺子屋が多く、江戸時代には筆子(寺子屋の生徒のこと。教師は僧侶・神官・医師・浪人や農民などで、寺筆子(ふでこ)とよばれた生徒は613歳でほぼ2030人程度。教育の内容は読み書き・そろばんが中心で、午前7時半ごろ~午後2時半ごろの授業時間の大半が手習い(習字)についやされた。の塚が30近く確認されている。最古のものは狐塚の弥勒院(みろくいん)。規模の大きいものは薬師堂に天保14年(1843年)に建立された漢学者山崎文次郎の筆子塚で、筆子は他郡にまたがり100人以上いたとのこと。

太郎右衛門橋(たろうえもんばし)
 地元の人は『たらえもんばし』と呼んでいる人も多いが、資料だと『たろうえもんばし』となっている。(子供のころ、橋の横のわずかな隙間の欄干を渡って鳩の卵を取った記憶があるが、落ちたら大怪我する高さだったので今考えると誠に恐ろしい!)
 荒川沿いに太郎右衛門河岸(たろうえもんがし)があり、江戸末期から年貢出しに利用されていた。川田谷側と対岸の川島を結ぶ太郎右衛門渡もあったとのこと。広報おけがわ(平成6年8月1日号)によると、『荒川』はその名のとおり荒れる川で、この被害を防ぐため、寛永六年(1629年)関東郡代であった伊奈半十郎忠治によって大規模な瀬替え工事が行われた。これ以降熊谷市久下でせき止められ、その流れを入間川の支流である吉野川におとし、現在の流路に近い姿になった。その後は、内陸部の交通や物品の流通に大きな役割を果たすことになった。その河川敷に作られた『太郎右衛門河岸』は船積場として栄えた。しかし大正時代以降は高崎線の開通や河川改修によって河岸場としての機能は衰えていったとのこと。太郎右衛門河岸付近に明治初期、板橋がかけられ、第二次世界大戦後は冠水橋がかけられた。

泉福寺
 川田谷地区の南西、荒川東岸にある。(泉福寺の名前は地元の人で知らない人はいないほど有名。地元の人は泉福寺の鐘を聞いて新年を迎える)
 天長6年(829年)淳和天皇の勅願(天皇のお願い)により、慈覚大師円仁が関東に天台学を広めるために、道場を開いたことが始まり。永禄3年(1560年)越後の長尾景虎が関東に出陣し、北条氏康と戦ったときに、泉福寺で陣取ったとのこと。
 中世以来関東の有力寺院であったが、何度か戦火にあって荒廃、復興を繰り返しているとのこと。(資料;日本の歴史地名体系11 埼玉県の地名)

川田谷の古墳群
 大宮台地の西側、荒川を見下ろす標高20メートルの台地上にある。荒川の沖積地に向かって飛び出している川田谷の台地の3つの支丘を中心に、川田谷の古墳群は北から 西台、原山、柏原、樋詰の4支群で形成されている。特に樋詰支群の熊野神社古墳(円墳)は、埼玉県の指定史跡となっている。また熊野神社古墳の出土品は国指定重要文化財となっている。また最近は諏訪野遺跡が新聞等で話題になった。

三ツ木城跡
 川田谷の発達した樹枝状谷に臨む突き出した台地にある。主要部の標高19.6メートル。東西北の3方向が泥深い湿地で、自然の要害となっていた。遺稿は半島状に突き出た台地の先端部の平坦面と肩部及び台脚部の斜面にあり、東西120メートル、南北110メートル。縄張りは半島状の地形をたくみに利用して、内外2重の土塁と堀で囲まれた三角形の単郭である。

川田谷の伝承民俗芸能
 松原・三田原・前領家地区・・・・・・・・・・・・・・・・獅子舞
 薬師堂・松原・柏原・狐塚・岡村地区・・・・・・・・万作踊り
 薬師堂・狐塚地区・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・餅つき踊り
 松原地区・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真言
川田谷Q&A

川田谷に銀行があったって本当? 営業内容については実のところ不明であるが、明治15年総代を川田谷村の高橋甚左衛門とし、資本金3万円をもって大蔵卿に許可申請を出しており、明治16年(1883年)1月に川田谷村に私立銀行設立を許可されたという記録が残っている。当時、農村家内工業、工業制手工業の規模の発展が目覚しく、資金の需要が高まる中、各地で国立銀行及び私立銀行の設立が盛んだった時期に上記の設立申請があった。
川田谷に軍事施設があったって
   本当?
現在のホンダエアポートに熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の飛行場があった。兵舎は当時川田谷村字若宮(総合グランドよりも東側の高台付近)にあった。
昔の川田谷村の予算の規模はどれくらいだったの? 昭和24年の川田谷村の決算報告書によると、歳入合計で 667万円だったそうです。ちなみに当時桶川町の歳入金は1250万円だったそうです。

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